2009年07月21日

茶の湯の愉しみ

 昨年、本の取材で大樋焼本家10代・大樋長左衛門さん(文化功労者)からじっくりとお話をうかがう機会を得、それをきっかけに茶道を始めた杉村です。今回は、超初心者がお届けする茶の湯の愉しみです。どうかおつき合いを。

 教養の乏しさを暴露するようで恥ずかしいが、習い事はこの齢にして初めてである。知人から紹介された裏千家の教室へ、この2月から月3回のペースで通っている。「出された茶をちゃんと頂ければ」という暢気な気持ちで出かけ、自分が点前をしなければならないことに後から気づくという愚かさであった。
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 稽古は、襖の開け閉て、お辞儀の仕方、畳の歩き方からである。右手のところが左手になったり、右足で踏み出すところが左足になったりと、頭の中は混乱の極みで散々の出来。そして、汗だくになって奮闘、初めて点てた盆略点前の一服を、先生は実においしそうに飲んでくださるのであった。味のほどは定かでなく、その心遣いに感謝するほかなかった。
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 あれからはや半年が過ぎた。毎回、自分の稽古と先輩の稽古を拝見して過ごす約2時間半は、あっという間にたつ。無心と言っていいかもしれない。床にかかる掛け物の禅語を味わい、花入れで命の輝きを放つ草花を慈しむ。季節で変わる釜や茶碗、棗などのお道具を眺めると、茶の湯が日本人の美意識の結晶であることを間違いなく実感できる。
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 覚えが悪いということもあり、家で謙虚に復習をする。そのための道具を買うのも愉しみのひとつだ。今は風炉の季節。電熱式の風炉に時代を帯びた釜を乗せ、湯を沸かす。沸き立つ湯音が耳に心地よく、「閑座聴松風」の境地には遠いが、どんどんと気が静まっていく。
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 夏らしい平茶碗は、水辺の芦と蛇篭の絵が涼味を誘う。蓮の葉をかたどった唐銅製の蓋置も夏にぴったりの風情。染付が涼しげな水指の肩にあしらわれた二閑人は、愛嬌があってお気に入りのデザインである。
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 金沢の梅雨明けはまだだが、外では木槿がにぎやかに咲き、本格的な夏の訪れを告げる。稽古はこのところ、茶筅かざり、葉蓋点前、貴人点と薄茶でも毎回変わり、困惑の度を増している。さらに、11月の炉開きから、「そろそろ濃茶を始めますよ」との予告を受けている。
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 なかなかに大変だが、それらも含めて愉しんでやろう。茶の湯の真髄は「和敬清寂」である。相手をうやまい、一碗のために心を尽くす。未熟者ながらも、この気持ちを忘れずに励みたいし、仕事に向き合う姿勢もかくありたいと思っている。

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2009年07月02日

大人の宿

 「お洒落で粋ないい宿を教えて」。最近、友人から聞かれました。「だれと?」なんて聞き返せません。きっと夏休みに家族と行くのでしょう。そこで、今回は杉村とっておきの大人の宿を紹介します。

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 5月半ば、久しぶりに京都へ行ってきた。行き先は、世界文化遺産の延暦寺と西本願寺、御所と桂離宮。齢を重ねるにつれ、日本人の精神性と美意識に触れたいという欲求が膨れあがっている。同時に、せっかくの旅を台無しにしないよう、宿選びには念を入れるようになった。
 旅行雑誌はあてにしない。美食家たちの書いた本を何冊か手元に置き、行き先に応じて選ぶようにしている。今回の京都は、柏井壽の「極みの日本旅館」にある要庵西富屋を予約した。

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 錦市場の近くにあり、町なかに溶け込むような格子戸の脇にかかった小さな看板を見て初めて「ここが要庵!」と気づく。まことに、つつましやかな外観なのである。そして、細い路地庭の石畳を踏んでいくと玄関があり、中に入ると立派なワインセラーが今日の飲み手たちを待っているのが見えた。
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 坪庭のついた部屋が洒落ていた。李朝風の飾り箪笥に文房四宝が調度として置かれ、備前の壺に緑が生けられている。踏み込みの6畳にはソファーと棚があり、クラシック、ジャズなどのCDと本がさりげなく飾られていた。
 人を圧する緊張感やこれ見よがしの華美さは毛ほどもない。京都へ来て心底くつろげる小粋な空間が用意され、そのセンスと心配りに感心するのであった。

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 西富家の懐石は「キ(季節)、キ(機会)、キ(器)の心」を大切にしている。椀物は、初夏の京らしく鱧のくずたたきが出た。フォアグラを練り込んだ胡麻豆腐、濃厚に香り立つヨモギ麩も入り、その味の絶妙なハーモニーにいきなり圧倒される。お造りのサイマキエビはこりこり感がたまらず、焼いた頭がまた香ばしい。アイナメは皮をさっと火で炙るなど、おいしくいただくための手間が惜しみなくかけられているのである。
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 絶品は鮎の塩焼きであった。「今頃の鮎など脂がなくて食べられるか!」という己の先入観を恥じるほかなかった。笹を生けた美濃(と思う)の緑の器に運ばれて若鮎が出てきた。ダイナミックに頭からいく。骨は柔らかく、難なくかみ切れる。そして、かむほどに脂の甘さがわき出してくる。
 火で焼き尽くして鮎の命は食に変わる。この甘さは、若鮎が楚々とした姿態の中にもしっかりと秘めた命そのものに思えた。大げさかもしれないが、生かされてあるこの命の重さをあらためてかみしめるのであった。

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 八寸は白釉の四角い器に盛りつけた9種の味覚と彩りの競演であり、焚合のヒロウズには細切りにした大原筍を忍ばせ、水菜、グリンピース、山椒と小鉢の中で緑がこぼれた。「完食されましたね」とうれしそうに接待の若い女性が器を下げていった。
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 妻と2人で白ワインも空き(通ではないので銘柄は失念)、ほろ酔い気分で風呂へ行った。ここにも演出があった。浴室内にも花が生けられ、ユーモアたっぷりの人形の焼き物が湯船のタイルを飾っていた。そして、部屋に戻ってソファーにだらしなく横になり音楽を聴いた。
 宿に着いてからというもの、時間が静かに優雅に流れていくのを五感で味わった。これこそが贅沢というものであろう。おかげで今回の旅はほぼ満点であった。旅立ちの朝、見送ってくれた主人に礼を言うと、「よく金沢におじゃましますが、旅館がシティホテルに押され駄目になっていくのを反面教師に工夫しています」とのこと。ほんと西富家みたいな宿が金沢にもあったらと、つくづく思った。
posted by ライターハウス at 20:31| Comment(2) | TrackBack(0) | 専務日記